ここ2回ほどにわたって、「鼻腔弁」(びくうべん)と命名した部位を紹介してきた(詳しくは前のエントリーを参照してほしい)。その後、僕自身この箇所の開閉を意識しながら声を出す実験をいろいろと重ねてみたが、やはりその効果は絶大のようだ。
あたかもその場所に、じかに声帯が備わっているように感じられるのだ。
鼻腔弁を開閉すると、それに呼応するかのように声帯が開閉するのである。そのため、まるで鼻腔弁で発声しているような錯覚すら持ってしまう。今までなかったほどダイレクトに声帯をコントロールしている、という手応えがあるのだ。
僕は以前この近辺の部位について「第二の声帯」あるいは「発声ポイント」といった呼び方をしてきたが、それは当を得ていたように思う。
欧米人の歌手の中には、発声練習として猫の鳴き声のような「ニャニャニャニャニャー」という声を出す人が結構いる。ベット・ミドラーがある映画で発声練習するシーンでもこれを使っていた。なんでそんなことをするのか以前は不思議に思っていたが、これはまさに鼻腔弁を絞り込む練習だったのだ。こうして鼻腔弁を絞り込むことで、声帯が一番効率よく機能する状態を自分で再確認できるのである。
しかし、声が鼻腔弁の周辺で共鳴を得て増幅される効果はあるにせよ、ここで空気振動が始まるわけではない。あくまで声帯はのどぼとけのあたりにあるはずなのに、この鼻腔弁があたかも声帯そのもののように感じられるのは、いったいなぜなのだろうか? 声帯の物理的な位置と体感的な位置にこうしたギャップがあることが、どうも不思議だった。
で、いろいろと考えてみた。
もしかしたら、鼻腔弁のあたりをコントロールすると、声帯も一緒にコントロールされるのかもしれない。つまり、鼻腔弁が声帯のリモコンあるいはコクピットみたいに機能しているのではないか。
理屈の上ではこの仮説で十分に説明がつくし、体感的にも納得できる。要するに、鼻腔弁が「声帯のツボ」的な役割を担っていて、ここを刺激すると声帯がしかるべく機能してくれる、というイメージだ(この「声帯のツボ」という考え方は、以前にもここでご紹介したかと思う)。
だとすれば、鼻腔弁の付近と声帯をつないでいる神経があるのではないか。それを確かめるには、脳から鼻腔や上咽頭や声帯につながる神経の経路をたどってみればいい。
そこで手っ取り早くネットで調べてみたら…残念ながら、はずれだった。神経図をいくつか見てみたが、鼻腔・上咽頭付近と声帯の間には、直接的な神経のつながりが存在しないのだ。
しかし思わぬ収穫があった。声帯をコントロールしている神経が、実に興味深い特性を持っていることがわかったのだ。
その神経の名は「反回神経」。僕の造語ではなく、れっきとした医学用語だ。迷走神経と呼ばれるグループに属する脳神経である。この神経がなぜ興味深いかというと、声帯を動かすための神経なのに、脳から直接声帯に伸びるのではなく、まず首に下りてきてから声帯の脇をいったん素通りし、わざわざ鎖骨の後ろや心臓の大動脈弓をくぐってから再び首に戻って(すなわち反回して)、はじめて声帯につながるのである。
次のYouTubeビデオが参考になると思う。
反回神経麻痺/ミルメディカル 家庭の医学動画版 – YouTube
声帯を駆動するこの反回神経は、なぜか非常に遠回りした挙げ句に声帯に戻ってくるのだ。
そこで考えた。反回神経がこれだけ遠回りしているとしたら、僕たちが考えている声帯の位置と、脳が認識する声帯の位置とが大きくずれている可能性もあるのではないか、と。
声帯はのどぼとけの奥にある。しかし僕たちの脳は、声帯が実際とはまったく違う位置にあるように錯覚しているかもしれないのだ。その錯覚上の声帯の位置こそが鼻腔弁ではないか、というのが僕の仮説である。いわば声帯の蜃気楼のようなものだ(「まぼろし声帯」あるいは「ファントム声帯」なんていう名前で呼んでみても面白いかもしれない)。
実をいうと、そもそも「鼻腔弁」なる器官が存在するというはっきりした証拠はなく、むしろ多分に架空の存在としての要素が強い。しかし、だとしても鼻腔弁の有用性が損なわれるわけではない。たとえ架空の存在でも、認識上は実在しているように機能するのであれば、それは存在しているのと変わらないからだ。ちょっとパラドックス的だけどね。(仮に鼻腔弁そのものが神経の錯覚の産物だったとしても、それを操ることでうまく発声できるとしたら、それを使わない手はない。そう考えてみると、実在とフィクションの区別は結構あいまいかもしれない。)
ちょっと話を戻そう。反回神経というやつは、迷走神経という神経系統から枝分かれしたものなのだが、同じ迷走神経の根元近くでは、咽頭や喉頭の筋肉を動かす神経も分岐している。反回神経は、迷走神経が胸のほうまで伸びた後にはじめて分岐し、方向を変えて声帯に戻ってくる(ちなみに迷走神経はその後、内臓にまで伸びてこれを支配する)。そのくらい配線が込み入っているとすると、もしかしたら声帯が喉頭や咽頭よりも上にあるかのように、逆転して脳に認識されていることもあり得るのではないだろうか。たとえば、もともとは咽頭を制御する神経よりも上にあった神経が、進化の過程で次第に反回神経として伸びていって声帯を司るようになったのだとしたら、体感として声帯が鼻腔弁付近にあるように感じられても不思議はないはずである。
以上はあくまで僕の仮説だが、実際的にはそう考えると納得のいく面があることも確かだ。
少なくとも、発声器官のうち声帯につながる神経だけが異常に遠回りした配線となっているという事実は、発声のあり方に重大な影響を与えているに違いない。声帯の実際の位置と、神経配置からくる位置認識(正式には位置覚というらしい)のギャップが、何らかの形で僕たちを欺いている可能性が高いのだ。その欺きに気づいた人の中から、たとえば声楽家として超人的な声を操れるような人たちが生まれているのではないか、と僕は考えている。
日本語と英語の関係にこの仮説を当てはめるなら、おそらく英語(および類似の言語)の発達してきた環境では、「鼻腔弁の付近で声帯を操れる」という知覚が本能的に共有されてきたのではないだろうか。その大きな要因として、英語系の言語では鼻腔の響きがごくふつうに用いられていることが挙げられる(反論される向きもあるだろうが、日本語と比較すればこうした言語のほうが鼻腔を多用することは紛れもない事実だ)。だから、こうした言語をしゃべる人はもともと鼻腔を使うことに比較的抵抗がなかった。したがって彼らは、発話プロセスの一部分として、鼻腔弁の効果的な使い方を自然と身に付ける機会に恵まれていた、と考えられる。
これに対し、鼻腔をほとんど使わない日本語などの発達過程では、鼻腔弁による声帯のコントロールが可能だと気づく機会がはるかに少ない。その結果、「声はのどから出るのだから、のどさえ鍛えればいい声になる」という考え方が支配的になったと推測される。この「のど支配」の考え方は一見理にかなっているようだが、結果的には僕たち日本人が声帯の「欺き」に気づくチャンスを薄れさせた、と僕は見ている。
もちろん日本語でも声帯は使われているので、必ずしも鼻腔弁を意識しなくても声帯を曲がりなりにコントロールできることは間違いないが、問題はコントロールの質だ。声帯はのどにあるはずだ、と頭で思っている限り、いくら声帯を直接コントロールしようとむきになっても周辺の筋肉が動員されるばかりで肝心の声帯には効率よく伝わらず、気持ちだけが空回りして力みが入ってしまう。これでは声の充実にはつながらないのである。もちろん曲がりなりに声は出るが、たとえば歌うときには高い音域がつらくて出せなかったり、無理がたたってのどを痛めたりする。
それよりも、鼻腔弁を「声帯の仲介者」だと認識してこれを使ったほうが、かえってよりストレートに、しかも精緻で起伏に富んだ声帯のコントロールが可能になる。かなり高い音も容易に出せるし、英語で重視される強弱アクセントも自在に使えるようになるのだ。
ことクラシックの声楽に関する限り、「のどで発声する」という一見理性的な考え方こそが上達を妨げる要因となっていることは、業界の常識だ。英語の発音に関しても同様で、のどで声を出すという意識をいかに克服するかが、実は決定的な上達のカギを握っている。いわば、「声帯を欺き返してやる」のがヒケツだ。そのためには、「のどでは発声しない」と自分に言い聞かせることが最大のポイントとなる。のど発声を信じている限り、あなたの声は声帯に欺かれたまま「のど声」に終わるだけなのだ。