言葉をはっきり発音しようとすると、それまでうまくいっていた発声が乱れることが多い、という話を前回したが、これをちょっと違う角度から検討してみよう。
この現象が起きるのはおそらく、発声で使う身体の部分と、発音のために使う部分とが、一部重複しているためと考えられる。この重複したスペースが、発声・発音の各プロセスでそれぞれ異なる命令を受ける結果コンフリクトが生じ、発声のほうが犠牲になってしまうのだ。
とすれば、発声と発音の重複スペースを極力少なくすることで、この問題は解決できるのではないか。そう考えて、僕は「発音と発声の分離」というテーマを課題の1つに掲げてきた。
人によっては、発音と発声は不可分だと思うかもしれないし、発音と発声はそもそも別ものではじめから分離されている、と思うかもしれない。
僕の意見はちょっと違う。発声というのは声帯の振動を増幅するテクニックであり、これに対し、発音は出た声(無声の息も含む)に変化をつけて異なる母音や子音を作り出すテクニックだ。とすれば、発声と発音は決して絶対的に不可分ではなく、どこかでつながっている部分もあるはずだ。ただし、工夫次第でこれを完全に分離することも可能に違いない。一般的にみて、発声と発音を明確に分離するのが英語やクラシック声楽、明確に分離しない(というか一体としてとらえる)のが日本語、というふうに僕はとらえている。
一般には、声の出所はのどであり、発音に使われるのはそれより上にある舌、歯、唇、頬、上あご、下あご等の部分だと考えられている。なので、常識的には発音と発声が重複するなどとはちょっと考えにくい。しかし実はそこに大きな盲点があった。
それが以前にも取り上げた「声帯の欺き」である。
声帯をコントロールする神経(反回神経)は、いったん胸部にまで下りてから再びのどに戻るという異常に迂回した配線になっている。恐らくはそれに起因して、声帯がのどではなくあたかも上あごか鼻腔の付近にあるかのような錯覚が脳に生じているのではないか、という仮説を僕は立てている。
ならばこの錯覚を逆手にとり、鼻腔付近に声帯があるかのように意識しながらその声帯の虚像(鼻腔弁)をコントロールしてやれば、かえってダイレクトに声帯への命令が伝わり、声帯本来の働きが得られるのではないか。僕はそう考えて実験を重ねてきた。自分の声に表れる手応えからいうと、これは場外ホームラン級の大当たりだった。
ではこの声帯の欺きは、発音・発声の重複とどう関係しているのだろうか?
声帯の欺きによって何が起きるかというと、少なくとも体感的には、発音をコントロールする部分(主に口腔)よりも上に、発声スペースがのっかる形になる。常識的には発声する部分の上に発音をコントロールする部分がくるはずなのだが、それとはまるで逆の図式だ。
常識的には、発音スペース(だるま:口腔をイメージしたもの)の下に発声スペースがあるはずだが、声帯の欺きによって脳は両スペースの上下関係が逆転しているかのように錯覚している(国井仮説)。したがって、「口腔より上の高さで発声する」という常識外れの感覚をつかむ必要が出てくる。これに気づきさえすれば、発声と発音の両方をよりうまくコントロールできるようになる。
体感的にいうと、声の振動は口腔のやや上部(鼻腔弁)から発振され、さらに頭頂部へ向かっていったん消えるような感覚になる。そして、そこから声は不思議にものどの上部から再出現し、最後に口腔から出て行く。声の流れが不連続で、上下関係も常識とは逆なので、物理的には説明しがたいが、声帯の神経配置にずれがあるせいでこうしたワープ感覚が生じるものと僕は想像している。
整理すると、声楽的に正しい声は鼻腔弁で生まれ、そこから頭頂に向かう。ここまでを発声スペースと定義しておこう(発声スペースには鼻腔全体も含まれる)。
その後、声は上方にワープしていったん消えた後、のどから再び出現し、口腔を通って口の外へ出て行く。この最終部分を発音スペースと定義する。
発声スペース、発音スペースのどちらも、風船のような膨らみを持つ空間をイメージするとよい。あるいは右上の図のように、上下を入れ替えただるま落としのようなものを想像してもいい。
発音と発声を分離するためには、この2つのスペースの位置関係(常識とは正反対)を明確に自覚し、さらに発声と発音の各プロセスに相互干渉が起きないようにすればよいのである。
発声に関しては、「のどで発声するのではない」と改めて自分に言い聞かせ、発音スペースが口腔よりも高い位置にあることを改めて確認しておいてほしい。決してのどには頼らないことが、どんなに多様な発音を駆使しても影響されないピュアな発声への王道なのだ。
今回注目したいのは発音スペースだ。特に、発音スペースと発声スペースの境界がどこにあるかを自分のからだで確かめておくことが大切なのである。
発声スペースを決して侵害しないよう注意しつつも、できるだけ発音スペースを広く確保することが、明確な発音を得るカギだ。発声スペースさえ侵害しなければ、発声には乱れが生じず、常に一定の発声が保たれる。その上で発音に多様性を持たせればよいのだ。
発声スペースと発音スペースの境界は、口蓋だと考えられる。しかし実際には、僕たちが口を大きく開けてはっきり母音を発音しようとすると、その上の発声スペースに含まれる筋肉も動員してしまいがちになる。口を開けた結果、口蓋より上にある鼻腔や上咽頭の筋肉までつられて動いてしまうと、発声が歪むのは避けられない。なので、母音を発音する際には、口蓋より上の部分は微動だにさせないぞ、というくらいの気持ちで口を開けることが肝心だ。発音のために使うスペースは、発声スペースと一切重複させてはならないのである。発声スペース(鼻腔弁から上の部分)は声を作るという重要な役割を担っているので、そこへ余計なストレスをかけるのは避けなければならないのだ。
イメージ的には、母音をできるだけ明瞭に発音しようとすると、つい発音スペースの天井が高くなりすぎて、発声スペースに侵入しがちになる。それを避けるには、口蓋より上にはみ出る部分を何が何でも抑え込む、という意識を持つことだ。理想的な母音の広がりに比べると、ややてっぺんの部分がカットされて窮屈だが、ここが妥協のしどころだ。わずかな犠牲を払うだけで豊かな発声が維持できるからだ。発音の明瞭さは、口腔を横や下に押し広げることで補える。
要するに、風船状の発音スペースの天井は常にややフラットにしておかざるをえないのである。右上の図でいえば、だるまの頭をこの図よりもやや平べったくしたような感じかな。
日本語の場合はのど発声なので、上述した発声スペース(鼻腔弁より上の部分)を使う慣行がほとんどない。したがって発音スペースは青天井で高さ制限がない状態となり、発音をはっきりさせようとすると、発声スペース内の声帯コントロール系統(鼻腔弁)にも運動命令が伝わってしまう。その結果、声帯に必要以上の緊張が加わり、さらには声帯もどきも張り出しくるので、のど声にならざるをえないのだ。
これに対し英語では、発声スペースと発音スペースを明確に分離する傾向があり、発音スペースは決して鼻腔弁より上の発声スペースを侵害しない。そのため発声が損なわれず、しかも母音や子音も明確に出せるのである。
日本語と英語の声がきわめて異質に聞こえる原因は、おそらくここにあるのだと僕は考えている。
鼻腔弁のあるポジションには、実際の器官と、神経の錯覚による虚像器官(鼻腔弁)とが同居しているので、重複したどちらの器官のほうに脳からの命令が向けられているのか分かりにくいし、動きも混乱しがちになる。それを避けるためにも、発声スペースと発音スペースの分離を意識することが必要なのだ。これを訓練すれば、純粋に鼻腔弁だけをコントロールできるようになる。つまり、声帯のダイレクトなコントロールが可能になるのだ。さらに、声帯もどきを引っ込める命令も混乱なく出すことができる。
逆にこの分離があやふやなままだと、日本語発声(のど声・のど発声)からの完全な脱却はまず不可能なのである。