怪談噺ではないが、ろくろ首というお化けについて一席。
前にも触れたが、僕の提唱する鼻腔弁というやつは声帯の幽霊みたいなものだ。これを呼び覚ますと、実際はのどにある声帯があたかも鼻の奥に存在するかのような錯覚が生まれる。声帯の生き霊、といってもいいだろう。
そんなことを考えているうちに、ふとこんな疑問がわいてきた。声帯と鼻腔弁、果たしてどっちが現実でどっちが虚像なんだろうか、と。
中国の故事に、自分が蝶々になって楽しく飛び回る夢を見る男の話がある。あまりにも現実感の強い夢なので、男は「果たしてこれは夢なのか、それとも実は自分は蝶で、それが人間になった夢を見ているのではないか」といぶかしがる。ちょいと哲学的というか、実存性への疑問を象徴するような話である。
どちらが現実でどちらがまぼろしか、というのは、突き詰めるとそう簡単に割り切れる問題ではない。視点をずらしてみれば、鼻腔弁のほうが現実で、声帯のほうがまぼろしだったとしてもおかしくはないのだ。
これを実験してみない手はない。僕はまず、物理的な声帯の位置を絶対視しない、というスタンスをとってみることにした。声帯がのどにあるという常識は夢想にすぎない、と考えるのだ。
そして、声帯は鼻の奥にある、という空想を「別次元の現実」ととらえることにした。
この別世界では鼻腔弁こそが本当の声帯で、のどにあるのは声帯の抜け殻にすぎない、と考えるのである。
なーんだ、同じ現実を視点を変えて見ているだけじゃないか、と言われれば、確かにそのとおりかもしれない。しかしこの視点の転換は、意外な効能をもたらすのだ。僕の経験上、脳は声帯よりも鼻腔弁とそりが合いやすい。声帯はあまり脳の言うことを聞かないが、鼻腔弁はわりと素直に反応してくれるのである。けれども、脳と鼻腔弁をつなぐチャンネルは実世界では存在しないとされるので、このルートの発達する機会がきわめて乏しいのだ。だとしたら、そんな悪しき既成概念なんかひっくり返してやればよい。
鼻腔弁を真の声帯ととらえると、声帯を操るための指令はすべて鼻腔弁の位置に向かうことになる。脳からの司令はいったんはのどを経由するかもしれないが、最後には鼻腔弁に達するのだ。この感覚を養い続けると、ついにはのどにある声帯の実像さえもが次第に浮上し、鼻腔弁の位置へとせり上がってくる。あたかも声帯がろくろ首のようにのどからヌーッと鼻の奥へ移動するような感じである。長く伸びる首の部分は、おそらく反回神経が化けたものだろう。
あるいはアンドンクラゲをイメージしてみてもよい。普段はのどに生息するアンドンクラゲが、声を出そうとする際にふわりと浮き上がってきて、細い触手みたいな反回神経を後にひきずりながら鼻の奥に届くと、前方に向き直って鼻腔にドッキングする、という感じかな。ちなみにこのアンドンクラゲは、声帯の精霊というか幽体みたいなものだと想像してほしい。
こうしてついには声帯のエッセンスがことごとく鼻の奥に位置を移し、のどには反回神経のみが残る。そして、声帯を操ろうとすると鼻腔弁が即応して声を出す。脳と声がダイレクトにつながるのだ。
この打てば響くような小気味よい反応は、のどに声帯の存在を引きずっていたときには味わったことのないものである。目からウロコではないが、のどから憑き物が落ちたような感覚、といえば分かってもらえるだろうか。
僕は以前から、声帯は鼻の奥にある、と主張してきたが、「あくまで想像上の話だけどね」と断り書きを添えていた。もしかしたらもうそんな釈明は不要かもしれない。声帯は本当に鼻の奥にあって、それを「現実」と捉えることが発声のさとりにつながるのではないか・・・
お後がよろしいようで。